石薬師宿

名所

東海道の中の石薬師宿

東海道は宿場が53あったことから、「東海道五十三次」と呼ばれていますが、その44番目の宿場町が、伊勢の国(三重県)にあった石薬師宿です。

 

東海道は今からおよそ400年前の1601年(慶長6年)、全国統一を目指した徳川家康によって整備が始められました。そして公用の書状や荷物を迅速に運ぶため、宿場ごとに人や馬をリレー方式で交代して運ぶ「宿駅伝馬制」が設けられました。東海道の宿場には、つねに100人の人員と100頭の馬が用意され、情報伝達のスピードアップが図られたといわれています。

 

東海道を日本橋から出発し、武蔵の国(東京都)、相模の国(神奈川県)、駿河の国(静岡県)、遠江国(静岡県)、伊豆の国(静岡県)、三河の国(愛知県)、尾張の国(愛知県)と経て、伊勢の国(三重県)に入ると、四日市宿の次にあるのが石薬師宿です。

 

江戸時代の人々は、男性で1日40㎞、女性や子供も1日30㎞歩いたといわれていますが、江戸から石薬師宿までの398.2㎞の距離を、当時の人は、だいたい12日かけて歩いたといわれています。

 

石薬師宿が宿場町として整備されたのは、1616年(元和2年)のことでした。四日市宿と亀山宿の間の距離が長すぎたため、石薬師寺の門前町だった高富村に、石薬師宿が設けられたということです。しかしその8年後の1624年(寛永元年)には、亀山宿との間にも庄野宿が設けられたため、このあたりの東海道の旅は、さらに便利になりました。

 

石薬師宿は、鈴鹿川の北岸の台地上にありました。本陣のまわりに高い松の木があったため、「松本陣」とも呼ばれました。規模は本陣が3軒、旅籠は15軒と小さく、伊勢参りのルートからは外れていたため、休憩で利用されることがほとんどだったといわれています。

 

南北に長い石薬師宿の北の入口では、「北町の地蔵堂」が旅人を出迎えてくれます。ここには延命地蔵が祀られ、昔も今も、東海道を行き来する人々の安全をお守りしています。

 

石薬師宿の本陣は、現在は「小澤(本陣)資料館」として整備されています。建物は明治初期に建て替えられたものですが、歴史を感じさせる趣が漂っています。しかしここは観光施設ではなく、館長の生活の場、仕事の場を見学させてもらう資料館なので、見学を希望する際には、事前の連絡が必要です。

 

この「小澤(本陣)資料館」には、石薬師宿を利用した人々の宿帳が保存されています。そこには、赤穂藩主・浅野内匠頭や、伊勢山田奉行当時の大岡越前守など、時代劇でもお馴染みの有名人の名前も記されています。

また江戸時代中期に活躍した国学者であり、三国地誌の編者の一人である萱生由章(かようよりふみ)は、この小澤家の出身となります。

 

「小澤(本陣)資料館」の近くには、石薬師宿の氏神にあたる大木神社があります。

大木神社の鎮守の森は、1haにも及ぶ広さがあり、市指定の「椎の森」として整備されています。椎の巨木と、杉、アラカシ、サカキ、ソヨゴ、ヤツデなど、100種類の樹木や草花が混生した美しい森なので、旅の途中に森林浴を兼ねて、少し散策してみてはいかがでしょうか。

 

石薬師と佐佐木信綱

旧東海道をさらに進むと、明治時代の歌人で国学者でもあり、第一回文化勲章受章者でもある佐佐木信綱の生家と「佐佐木信綱資料館」があります。佐佐木信綱は、江戸時代後期の国学者・佐々木弘綱を父に持ち、この地で生まれました。

 

佐佐木信綱は、東京帝国大学の教壇に立つ傍ら、万葉集研究のため、各地を巡って万葉集の古写本を発掘して「万葉学」を確立したり、「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)などの、埋もれていた古い時代の歌集や歌人に光を当てたり、「新古今和歌集」などの古典を活字として残して本を頒布するなど、日本の古典文学の復興と普及に大きな足跡を残しました。

 

「佐佐木信綱資料館」には、文化勲章をはじめとする多くの遺品、著書、原稿など、2000点が展示されています。また生家の庭には、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に詠われた卯の花(ウツギの花)が植えられています。

 

“卯の花の匂う垣根に ほととぎすはやも来鳴きて しのびねもらす 夏は来ぬ”

「夏は来ぬ」 佐佐木信綱

 

現在は石薬師宿のシンボルとして、町のいたるところに卯の花が植えられ、信綱の偉業を今に伝えています。

 

また、佐佐木信綱がふるさと石薬師を思い読んだ、次の短歌もあります。

“なつかしき わがふるさとは 鈴鹿嶺の はるかに仰ぐ 石薬師の里”

佐佐木信綱

 

蒲冠者(かばのかじゃ)範頼之社

また、少し歩いたところには、鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟であり、源義経の異母兄でもある源範頼(みなもとののりより)を祀る「蒲冠者(かばのかじゃ)範頼之社」(御曹司社)があります。範頼は遠江国蒲御厨(とうとうみかばのみくりや・現在の静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれていました。「蒲冠者(かばのかじゃ)範頼之社」(御曹司社)は、範頼が武芸や学問に秀でていたため、それらの願いが叶うご神徳があるといわれています。

 

「蒲冠者範頼之社」(御曹司社)からさらに南に60m歩いたところには、範頼にゆかりのある樹齢800年の蒲桜(かばざくら)、あるいは逆桜と呼ばれる桜の木があります。地元では「がまざくら」とも呼んでおり、三重県の天然記念物にも指定されています。

この桜は、範頼が平家追討の軍を率いて京都に向かう前、石薬師寺に詣でて戦勝を祈願し、その際、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿し、「我が願い叶いなば、汝、地に生きよ」と言って出発した時のものといわれています。範頼は宇治川の合戦で見事勝利をおさめ、桜の枝も芽を吹いて根を張り、春には美しい花を咲かせるようになり、現在に至っているといわれています。

 

“ますらおの 其の名とどむる蒲さくら 更にかをらむ 八千年の春に”     佐佐木信綱

 

石薬師寺

そして南北に連なる石薬師宿の南端には、東海道の名刹として知られる石薬師寺があります。

正式には真言宗高富山瑠璃光院石薬師寺といい、弘法大師空海が一夜のうちに爪で掘ったといわれる、花崗岩の自然石を浅く掘った190㎝の薬師如来をご本尊としています。

 

石薬師寺は大変古い歴史があり、奈良時代の聖武天皇の時代の726年(神亀3年)、加賀の白山を開いたことでも知られる泰澄によって開創されました。その後、平安時代の812年(弘仁3年)に、日本に密教を伝え、高野山を開いたことでも知られる弘法大師空海がご本尊を刻み、開眼法要が行われました。

 

いわば日本の仏教界のスーパースター、泰澄と空海という2人の高僧が、この場所に霊威を感じて開いたお寺ということになりますが、そのご利益を求めて、開創以来1200年以上にわたって、様々な人々がこのお寺をお参りしました。江戸時代に参勤交代で石薬師宿を訪れた大名たちも、必ず石薬師寺に参拝し、道中の安全を祈願したといわれています。

 

歌川広重によって描かれた石薬師宿

江戸時代の名浮世絵師、歌川広重が描いた「東海道五十三次」の「石薬師寺」という絵にも、石薬師寺の山門が描かれています。山門の右手には、石薬師宿の家々が描かれ、家々のすぐ裏に広がる田圃では、秋の収穫が終わった後の田の手入れを行っている農民の姿がみえます。

 

歌川広重といえば、多くの画家たちに影響を与えたことで知られていますが、特に幕末から明治にかけて、日本の文化がヨーロッパに伝わり、ジャポニズムと呼ばれる大ブームが起きた際には、ゴッホやルノアールやマネといった印象派の画家たちに、熱狂的に支持されました。

 

ゴッホが描いた「タンギー爺さん」という絵には、人物のバックの壁に日本の浮世絵が飾られていますが、その中の1枚は、歌川広重が石薬師宿の春の光景を描いた「五十三次名所図解 四十五 石薬師 義経さくら範頼の祠」という絵です。つまり、歌川広重が描いた石薬師寺を、ゴッホも模写して描いたということになります。

 

まだまだある、描かれた石薬師宿

また、放浪の画家として知られる山下清や、「ゲゲゲの鬼太郎」などで知られる水木しげるも、東海道を旅した際に石薬師宿を訪れ、石薬師寺を描きました。

 

山下清は石薬師寺をスケッチした際、

「古い寺は小さくとも ながい時間たってるうちに しぜんにいい景色になるんだと思うな やっぱり」

と述べられたといわれています。

 

また、歌人として知られる西行や、とんちで有名な禅僧の一休、「奥の細道」などで知られる松尾芭蕉も石薬師寺を訪れ、それぞれ歌を詠んでいます。

 

“柴の庵に よるよる梅の匂ひきて やさき方もある住いかな”      西行(平安時代)

“名も高き 誓いも重き石薬師 瑠璃の光はあらたなりけり”       一休(室町時代)

“春なれや 名もなき山の薄霞”                    松尾芭蕉(江戸時代)

 

歌川広重やゴッホや山下清や水木しげるが描いた石薬師寺の絵は、石薬師寺の納経祈願受付寺務所の上に飾られています。また、西行や一休や松尾芭蕉が詠んだ歌を刻んだ石碑も、境内に設置されています。これらの絵画や歌を鑑賞しながら、1200年の石薬師宿の歴史と風情を堪能してみてはいかがでしょうか。

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