庄野宿

名所

東海道の中の庄野宿

今から420年前、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、全国に勢力を広めるため、江戸の日本橋を起点とする、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の、5つの街道を整備しました。中でも最も重要視されたのが、徳川幕府がある江戸と、朝廷のある京都をむすぶ東海道でした。

 

東海道は江戸から京都まで、約487.8㎞の道のりがありますが、その道筋に、約3㎞から16㎞の間隔で53の宿場が置かれました。当時の日本人は、男性で1日に40㎞、女性でも30㎞歩いたといわれていますが、東海道の旅人たちは、これらの宿場を利用しながら江戸から京都まで、約2週間かけて移動したといわれています。

 

東海道を日本橋から出発すると、武蔵の国(東京都)を出て、相模の国(神奈川県)、伊豆の国(静岡県)、駿河の国(静岡県)、遠江国(静岡県)、三河の国(愛知県)、尾張の国(愛知県)を経て、伊勢の国(三重県)に入ります。

 

伊勢の国、つまり現在の三重県には、桑名宿・四日市宿・石薬師宿・庄野宿・亀山宿・関宿・坂下宿の、7つの宿場がありました。尾張の国(愛知県)の最後の宿場、熱田神宮のある宮宿から桑名宿までの間は、「七里の渡し」と呼ばれる船に乗って伊勢湾を渡りました。

 

「七里の渡し」は、伊勢神宮や熱田神宮を参拝する人々で、常に賑わっていました。旅人たちは、海の向こうに見える尾張や伊勢の風景を愛でながら、ひとときの舟旅を楽しんだことでしょう。

 

やがて船が揖斐川に近づくと、向かって左の岸の突端に、どっしり構えた桑名城が見えます。城の北側の堀を過ぎると、すぐ左手に桑名宿の渡し口があり、ここで上陸して、四日市宿、石薬師宿、庄野宿へと歩みを進めました。

 

三重県鈴鹿市にある、東海道45番目の宿場町、庄野宿(三重県鈴鹿市庄野町)が成立したのは、東海道の宿場の中でも最も遅い、1624年(寛永元年)のことでした。

鈴鹿川対岸の集落から民家を移して整備されたといわれ、出来たばかりの頃は「草分け三十六戸、宿立て七十戸」といわれました。

隣の石薬師宿からの距離も3㎞と、東海道の中で2番目に近い距離で、石薬師宿と同じく伊勢参りのルートではなかったため、休憩する人が大半で、宿泊客は少なかったといわれています。

農村の中の宿場なので、宿場町を出ると、すぐにあたり一面田圃でした。また宿場としてだけでなく、農村としての役割もあったので、年貢も納めなければなりませんでした。

 

歌川広重によって描かれた庄野宿

この小さな宿場町の庄野宿を、一躍有名にしたのが、歌川広重(1797-1858年)の「東海道五十三次」で描かれた「白雨」(はくう)という絵です。この絵は蒲原宿(静岡県)を描いた「夜之雪」とともに、「東海道五十三次」の傑作といわれています。

 

「白雨」も「夜之雪」も、実景を描いたものではなく、広重が想像力を働かせて描写したものです。

 

「白雨」は、勾配のある坂を必死に登る駕籠かきと、転げ落ちるように駆け下る旅人と農夫、そして急に降り出したにわか雨が、交差するように表現されています。

しかし実際の庄野の地形は鈴鹿川に平行していて平なので、この絵の舞台となった坂道を探そうとしてもみつからないといわれています。

 

「夜之雪」も、積雪で白く雪化粧した風景を、白と黒の墨絵調で描き、静寂な夜を表現していますが、温暖な蒲原では、この絵のような大雪は降らないといわれています。

 

しかし、大胆な構図で表現した坂道と、急に降り出した雨風、そして行きかう人々の躍動的な姿を描いた「白雨」と、深々と降り積もる雪によって静けさを表現した「夜之雪」は、見事な動と静の対比となって、歌川広重の最高傑作といわれています。

 

歌川広重の絵は、大胆な構図や青色の美しさで、海外でも高く評価されていますが、特にヨーロッパの印象派やアール・ヌーボーの芸術家達、中でもゴッホやモネに大きな影響を与えました。

 

現在の庄野宿

世界の名だたる芸術家たちに、大きな影響を与えた絵の舞台となった庄野宿は、今も当時の宿場町の面影を残し、ひっそりと佇んでいます。今も残る古い街並みに、庄野宿資料館(旧問屋場・旧小林家住宅)や、庄野宿本陣跡の石碑、脇本陣跡、高札場跡が残されています。

 

庄野宿資料館は、東海道に面したかつての問屋場で、その後、旧小林家住宅として市指定の文化財になった建物を、江戸時代の姿に一部復元し、1998年(平成10年)にオープンしたものです。ここに庄野宿の膨大な資料が保存されています。また小林家の子孫でもある、日本画家の小林彦三郎氏の絵画や文書なども展示されています。

 

問屋場は、旅人の乗り物となる馬や籠を手配したり、荷物や手紙などを送る物流拠点として、宿場町には欠かせない施設でした。

 

例えば江戸から京都まで、東海道を約4日という速さで手紙を届けたという飛脚は、一人の飛脚が江戸から京都まで走るのではなく、宿場ごとに待機していた次の飛脚に手紙を渡し、リレー方式で運びました。物資も同じように、宿ごとに馬を変えて運びました。このようなシステムを「宿駅伝馬制」といいますが、こうした業務を担っていたのが問屋場でした。

 

問屋場ではほかにも、幕府の命令によって宿場近くの人々を集めて仕事を割り振る「助郷賦課」(すけごうふか)という業務も請け負っていましたが、こうした業務の帳簿なども、庄野宿資料館には保存されています。

 

また庄野宿の名物だった「焼米俵」についての説明もあります。

「焼米俵」とは、握りこぶしほどの大きさに編んだ俵に、新米を籾のまま炒ってついた「焼米」をつめたもので、そのままスナック菓子のようにポリポリ食べたり、お湯に浸してお粥のようにして食べたものです。旅の携行食としても最適で、現在は、非常食として見直そうという動きもあるそうです。

 

また、現在は石碑があるだけですが、かつては庄野宿にも本陣と脇本陣がありました。本陣と脇本陣というのは、その土地の名士の屋敷を、大名の休憩所や宿泊所に指定したものです。大名は本陣を、本陣に入りきらない家来達は脇本陣を利用しました。

 

東海道は、街道の中でも格式が高いとされたので、西国大名が参勤交代で江戸と国元を往復する際にも、よく利用されました。きらびやかで壮大な大名行列が、庄野宿の本陣や脇本陣で、休憩したり宿泊したりしている様子を想像しながら、江戸時代に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

 

庄野宿には「高札場」もありました。高札場とは、幕府や領主などが決めた法度などを木の板札に書き、人目に付くように高く掲げたものです。高さは3~4m、間口も3~5mあり、雨に降れないよう屋根が設けられていました。「高札場」はすべての宿場に設けられ、全国に幕府からの重要な知らせを届けていました。庄野宿資料館には1682年(天和2年)の高札が残されており、全国的に見ても例が少ないものと言われています。

 

日本武尊のお墓「白鳥塚御陵」(諸説あり)

また庄野宿の近くには、「白鳥塚御陵」と呼ばれる日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお墓があります。「白鳥塚御陵」は三重県最大級の帆立貝式墳で、県の史跡にも認定されています。日本武尊はこの地で崩じられ、白鳥となって大和に飛び立ったといわれています。(ただし、日本武尊の墓については諸説あり、「白鳥塚御陵」もその一つですが、亀山市能褒野のもの(前方後円墳でもある)を宮内庁が管理しており、有力とされています。)ちなみに地元の中学校の名前も「白鳥中学校」、加佐登の地名の由来は日本武尊のかぶっていた笠、つまり「笠殿」が残されていたという伝説からきているそうです。近くには日本武尊をお祀りする加佐登神社もあるので、合わせてお参りにいかれてはいかがでしょうか。

 

実はこのあたりの街道は、江戸時代よりずっと昔、飛鳥時代や奈良時代にまでさかのぼる歴史があります。

 

奈良県の明日香村に都があった時代は、大和国(奈良県)の宇陀が東海道の入り口でした。そして奈良市の平城京が都になると、東海道は平城京から平城山を北上し、木津川の谷間を東に入って伊賀国に入り、鈴鹿山脈と布引山知の間を通って伊勢の国に入ったといわれています。つまり現在の国道1号線や25号線、163号線に沿ったルートが、古い時代からの東海道だったといわれ、ここから木曽三川の下流域を渡って尾張の国に入ったと考えられています。

 

日本武尊のお墓の「白鳥塚御陵」がこの地にあることが、何より大変古い歴史のあるところだということを物語っています。いにしえの時代から多くの人々が行きかった歴史ロマンあふれる庄野宿を、訪ねてみませんか。

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