今回は、鈴鹿市にある世界有数の鈴鹿サーキットとホンダ、F-1と鈴鹿市を紹介しましょう。
三重県鈴鹿市は、県庁のある津市と四日市市の中間県北部に位置する人口20万人の都市です。昔から交通の要所となったところから国府が置かれていた時代もありました。繊維産業が盛んだったころは旭化成やカネボウなどの工場も多数あり、太平洋戦争時代にはに鈴鹿海軍工廠が開かれて工業都市としても発展しました。
ホンダの工場が鈴鹿にあったことから世界屈指の鈴鹿サーキットが建設され、F-1や鈴鹿8耐など世界的規模のレースが開催されるモータースポーツの聖地として全国のみならず全世界にも知られているのが鈴鹿です。
◇本田宗一郎とモータースポーツ
ホンダの創業者となった本田宗一郎は、明治39年(1906)浜松市に生まれました。鍛冶屋を生業としていた父は、やがて自転車修理を行うようになり自転車店を営むようになりました。幼少期に、当時珍しかった車と遭遇しオイルの臭いに強いあこがれを抱くようになった宗一郎少年。当時の雑誌に載っていた東京で自動車修理を行っていたアート商会で、働きたい強い願いから丁稚奉公の嘆願書を送り見事にその願いは叶ったのでした。
アート商会は、バイクや自動車の修理を行っていたので宗一郎はそこでエンジンの知識を習得したのです。また、アート商会はようやく産声を上げた日本のモータースポーツにも積極的に参加していました。
大正13年(1924)開催の第5回日本自動車競争大会に、航空機エンジンとアメリカから取り寄せたシャーシを流用したレーシングカー「アート・カーチス号」で、ライディングメカニックとして参加し優勝しています。
本田宗一郎のモータースポーツに対する熱い思いは、丁稚奉公時代のアート商会で培われたのでしょう。
昭和3年(1928)に、アート商会からのれん分けしてもらいアート商会浜松支店として故郷に帰ってきました。アート商会ののれん分けは、厳しく宗一郎ただ一人にのれん分けが許されたのです。宗一郎は、色盲だったことから従軍することはありませんでした。その後、エンジン関係の会社経営を続けますが、昭和20年(1945)三河地震により工場が倒壊してしまいすべてが無になってしまいます。所有していた工場を売却して、1年間の休業します。その時、妻が自転車で買い出しに行く苦労を見て、「自転車に補助エンジンがあれば楽になるのでは」と思い翌年の昭和21年(1945)本田技術研究所(旧)を設立し、現在のホンダの礎を築いたのでした。2輪のホンダ スーパーカブや4輪のシビックなど大ヒットさせ現在にいたるのは皆さんご存知の通りでしょう。
◇鈴鹿サーキット
昭和30年代の日本には、多摩川スピードウェイ(1936~1950年)廃止後は未舗装路の浅間高原自動車テストコースしかありませんでした。
50年代から60年代初頭にかけホンダは、マン島TTレースに参戦し優勝を成し遂げました。2輪レースで頂点を極めたホンダの次なる目標は4輪の販売とF-1参戦に目標を変更したのです。
モータースポーツの発展のためには本格的な常設サーキットが必要と考えた本田宗一郎が、当時大ヒットしていたスーパーカブの増産工場として完成していた鈴鹿製作所の隣接地をサーキット用地として購入しました。当初の計画では、平坦な水田をサーキットにする予定でしたが、「米のできる水田を潰したら、目が潰れる! お米を粗末に扱うな!」との鶴の一声で、丘陵地帯の松林をサーキットにすることになりました。
1961年から1年半の建設期間をかけ完成した鈴鹿サーキット。実は、日本初の高速道路・名神高速道路(昭和38年)よりも速い完成となったのです。車の高速走行に耐ええる舗装構造は、ヨーロッパのサーキットから採取してきたテストピースを参考にして舗装されたもの。日本の高速道路は、鈴鹿サーキットを参考に作られているのですね。
鈴鹿サーキットの総工費は、15億円で現在の貨幣価値では255億円にもなります。
コースレイアウトは、東西に細長く立体交差があり右回りと左回りが入れ替わる特徴的なサーキットになっています。これは、タイヤが左右均等に減るように設計者が苦心して設計したものです。コース全長は5.8kmと国内サーキットでは最長です。コース幅は10~16m、コーナー数は20。コースの最大高低差は、52mと起伏に富んだコースになっています。
メインストレートは、全長800m。ダンロップコーナーやデグナーコーナー、130R、マッチャン(200R・250R)、西ストレートは全長1200mのコース最長ストレートと見どころ満載のコースレイアウトですね。
高低差と低速から高速コーナーが絶妙なバランスでレイアウトされた鈴鹿サーキットは、F-1ドライバーから高い評価で賞賛されています。現在フェラーリのドライバーであるセバスチャン ベッテル(2009年日本GP優勝 2010~2014年ワールドチャンピオン)は「神の手で作られたサーキットではないかとと思う」と述べるほど。現役F-1ドライバーの世界の人気サーキット順位では堂々の第5位と好成績を収めています。
◇鈴鹿サーキットで開催されるレース。
鈴鹿サーキットで、主に開催されるレースは7月の鈴鹿8時間耐久ロードレース(2輪)、10月のF-1日本GP。スーパーGTやスーパーフォーミュラーなど多数開催されています。
かって行われたビッグレースは、motoGP日本GP。NASCAR。世界ツーリングカー選手権(WTCC)。世界カート選手権。D-1グランプリ。鈴鹿1000km。モトクロス世界選手権日本GPなど、国内や世界最高峰のモータースポーツが開催されています。
◇モビリティ―パーク
鈴鹿サーキットを運営するのは、ホンダ傘下の、モビリティランドです。サーキット建設時からサーキットだけでなく、遊園地やホテルなどを併設するモビリティリゾートを目指して開発されました。まぁ、現在なら野球場に併設されるホテルや遊園地などのボールパーク構想のような総合型レジャー施設を目指して開発されたのは時代を先行くホンダならではの見地のなせる技でしょう。
◇ホンダとF-1
2輪で世界チャンピオンとなったホンダが目指したのはF-1です。ホンダのF-1挑戦は、4回に渡ります。
①第1期(1964~1968年)
葉巻型F-1の時代に、シャーシ・エンジンともにフルワークス体制で挑みました。1965年の第10戦メキシコGPで、リッチーギンザ―がドライブするRA272が優勝。ホンダの念願だったF-1優勝を成し遂げたのです。
②第2期(1983~1992年)
エンジンを供給するエンジンサプライヤーとして参戦。ウイリアムズ、ロータス、マクラーレンなどへエンジンを供給しました。1988年は、ホンダ製ターボエンジンを搭載したウイリアムズが圧倒的な強さを発揮して全16戦中15勝の勝ち星を挙げ圧倒的なパフォーマンスをみせてくれましたね。この時、ホンダ製パワーユニットを搭載したマシンをドライブしたのは、日本人初のF-1ドライバー 中島悟、生きていればF-1殿堂入りしただろうアイルトン セナです。日本のF-1ブームの頂点になりました。
③第3期(2000~2008年)
第2期からの休止期間中に、第1期のようなシャーシも自社開発するワークスフル参戦を目指しシャーシ開発を目指すも諸般の事情から再びエンジン供給のみのサプライヤーとして参戦。2006年には、BAT(ブリティッシュ・アメリカン・タバコ)が、たばこ広告のF-1禁止を受け撤退することから、所有していたBARを購入しフルワークス体制で参戦することになりました。しかし、2008年のリーマンショックの経済不況を理由にホンダはF-1から撤退。ジェイソンバトンのワールドチャンピオンとアースカラーが懐かしいF-1マシンでした。
④第4期(2015年~現在)
リーマンショックの経済不況から見事立ち直り、再びエンジンサプライヤーとしてF-1に帰ってきたホンダ。供給先は、第2期で黄金コンビだったマクラーレン。しかし、ライバルたちよりも1年遅くデビューしたホンダのパワーユニットは試行錯誤で思うような成績があげられませんでした。不振は、2年以上も続きマクラーレンからはF-1成績が悪いのはホンダ製パワーユニットのせいと原因を押し付けられホンダは窮地に立ちます。2018年からマクラーレンからトロロッソへエンジンを供給。2019年からは、トロロッソの親チームであるレッドブルへエンジン供給が開始され、オーストリアGPで優勝。その後ドイツGP、ブラジルGPと優勝し年間コンストラクターズ2位のフェラーリをも脅かす実力を獲得したのです。
2020年F-1は、メルセデス・フェラーリ・レッドブルの三つ巴の激しい展開が予想されていましたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため開幕は延長されました。ようやく、7月のオーストリアGPから2020F-1は、開催されます。2020シーズンの日本GPはコロナウイルス対策のため残念ながら開催中止となりました。しかし、来年はウイルス対策も万全となり無事開催されることを祈りたいと思います。
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