三重県鈴鹿市出身の歴史上の人物と言えば誰を思い浮かべるでしょうか。
天下に名を成した有名な戦国武将などがいると華やかでよいのですが、それほど全国的には有名ではないにしても日本の近代化に貢献した人物がここ鈴鹿市から出ているのです。
その人物こそ、鎖国の世にロシアを見てきた最初の日本人である大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)です。
当時のロシアの女王エカテリーナ2世に謁見し、帰国してからは江戸幕府第11代将軍徳川家斉にも引見するなど、一般人としては考えられない生涯を送った大黒屋光太夫。
彼が生きた江戸時代は鎖国政策が徹底され、外国へ行くことはおろか外国のことに興味をもつことさえ罪になった時代です。漁船や廻船が時おり嵐や海流に流され外国、特に中国や朝鮮へ漂着することはよくある事だったようです。しかしロシアに漂着して女王にまで謁見することなど異例中の異例でした。
そんな大黒屋光太夫は現在の鈴鹿市の南若松という地に船宿を営む亀屋四郎治家の次男として生まれました。
1782年(天明2年)師走、光太夫が31歳の時に運命の出来事が起きます。
伊勢国の廻船問屋である一見諫右衛門に沖船頭として雇われ、15名の船員らとともに総勢17名で「神昌丸」に乗船。伊勢白子の港から江戸へ紀州藩の囲米を運ぶ途中の駿河沖で暴風雨に遭い漂流してしまいます。
水も食料も失い、ただ漂うばかりの光太夫らは北へ北へと流され死の恐怖とも闘いながら7か月あまりも漂流します。1783年(天明3年)、一行は日付変更線を超えてロシア帝国の属領となっていたアリューシャン列島(アレウト列島)の1つである小さな島アムチトカ島へ漂着。
そこで先住民のアレウト人や毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇しました。初めて目にした外国人や、彼らが話す外国語と接してさぞかし驚いたことでしょう。彼らとともに寒さや飢えと闘いながら暮らす中で光太夫らはロシア語を習得し、その島で4年間を過ごしました。その間に仲間の7名が病死しました。
1787年(天明7年)、アムチトカ島のロシア人らとともにありあわせの材料で造った船により島を脱出することに成功します。当初は言葉も分からずロシア人に助けてもらい保護されるような立場でしたが、脱出用の船を皆で協力して作る際には、光太夫らが逆に指導的立場に立ってロシア人たちを引っ張っていたそうです。
小さな島を脱出した光太夫らは、カムチャッカ半島に渡りオホーツク海を渡り,オホーツクに到着します。日本とはけた違いの極寒の中で仲間が次々と病に倒れ、始めは17名いた一行はすでに6名にまで減っていました。苦難の道はさらに続き、零下50度にも達するシベリアを進み、ヤクーツクを経由してイルクーツクへ命からがらたどり着きました。オホーツクからイルクーツクまではシベリア横断5000㎞の過酷な旅でした。中には凍傷で足を切断した者さえいたそうです。1789年(寛政元年)、極寒の地獄絵図の末に到着したイルクーツクで、日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと運命の出会いを果たします。
1791年(寛政3年)、光太夫らはロシアの政府に帰国を許してもらうため、キリルに助けてもらい首都のペテルブルグに向かい、ロシア人たちの尽力により、ツァールスコエ・セローにて女王エカテリーナ2世に謁見することに成功するのです。覚えたてのロシア語で帰国を訴える彼らの話を聞いた女王は涙を流して帰国を許したとの逸話も伝わっています。余談ですがこの年の11月に光太夫らは女王に招かれ、日本人として初めて正式な茶会で紅茶を飲んだ人だとも言われています。これに基づき日本紅茶協会が11月1日を紅茶の日と定めたそうです。鈴鹿市ではこの日に紅茶にちなんだメニューが給食に出ることもあるそうです。
ようやく帰国を許された光太夫一行ですが、神昌丸で伊勢白子を出航した17名のうち、1名は漂流中に死亡、11名は島やロシア国内で死亡、2名が正教に改宗したため残留、帰国できたのは光太夫を含む3名だけでした。1792年(寛政4年)、アダム・ラックスマン(キリルの子)の修好使節となって、光太夫ら3名は現在の北海道、蝦夷の根室へ上陸を果たしました。漂流から約10年が経っていました。せっかく帰国しましたがこの地で1名が死亡、残った光太夫と磯吉という男のたった2名だけが、箱館を経て無事に江戸まで送られることになりました。
江戸へ着いた光太夫は江戸幕府11代将軍徳川家斉の前で、松平定信らの聞き取りを受け、その見聞体験の記録は桂川甫周が「漂民御覧之記」として書にまとめます。過酷な漂流からロシア帝国内の移動の苦労や厳しい冬、仲間を次々に失う様子、ロシアの多くの人々との出会い、皇帝への謁見、帰国などの「漂流記」、そしてロシアの風俗、衣服、文字、民族などの「博物誌」、さらにロシアで訪問した多くの施設や貴族の館の様子といった「見聞録」に、ロシア文字やロシア語の単語を紹介する言語学的な「語学誌」といった幅広い記述に満ちているものでした。
見聞録の中には今で言う孤児院に赤ちゃんポストが備えられている様子やその運用方法などの記述もあり大変興味深く書かれています。数多くの写本が残され、今でいうベストセラーとなります。10年近くの外国での暮らしにより海外情勢をよく知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展にも寄与することになりました。
光太夫らの記憶していた事項は驚くほど多種多様であり、当時の民衆を驚愕させ夢中にさせるには充分な内容だったでしょう。また、光太夫はロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に関して防衛意識を強めていくようになったそうです。光太夫の体験した事と知識が蘭学の発展や国防にまで影響を与えたと言ってもいいでしょう。
ロシアからようやく江戸へ戻った大黒屋光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に居宅をもらって生涯をそこで暮らしました。光太夫はここで新たに妻も迎えています。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ており、1986年(昭和61年)に発見された古文書によって1802年(享和2年)に故郷の伊勢へも一度帰国を許されていることも確認されています。1795年(寛政7年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちと交流していた事が分かっています。そして、1828年(文政11年)に光太夫78歳で波乱の生涯を閉じました。
大黒屋光太夫の生涯は1968年に井上靖が描いた小説「おろしや国酔夢譚」になっています。これは当時ロシアの事を「おろしや」と呼んでいた事に由来するそうです。映画化もされており、光太夫は緒形拳,庄蔵(凍傷で足を切断した仲間)は西田敏行が演じました。小説や映画などで光太夫の生涯を見てみるのも一興かと思います。ただこの小説では帰国後の光太夫と磯吉は自宅に軟禁され不自由な生活を送っていたように描かれていますが、実際は比較的自由な生活を送っており罪人のようには扱われていなかったようです。新たな資料の発見によって2003年に吉村昭によって描かれた小説「大黒屋光太夫」では事実を反映した史実に基づいた結末となっています。
なお、大黒屋光太夫一行のふるさと若松には数々の史跡が残されています。入館料無料で見応えたっぷりの「大黒屋光太夫記念館」と、ロシアから一緒に帰国した磯吉と光太夫の菩提寺である「心海寺」に訪れてみるのはいかがでしょう。光太夫をより知ることが出来る絶好のスポットです。南若松東墓地には光太夫らの供養碑と光太夫の生家の墓もあります。若松東には光太夫の行方不明から2年後に死亡したものと思い込んだ荷主が建立した砂岩の供養碑があり鈴鹿市の文化財にも指定されています。神昌丸が出港した伊勢白子の港などと併せて彼らの史跡を訪ねてみてはいかがでしょう。
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