神戸城

名所
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三重県鈴鹿市にはいくつかのお城があります。
その中から神戸本多町にある「神戸城」(かんべじょう)を紹介します。

いわゆる「お城」と言うと世界遺産・姫路城のように立派な天守がそびえ建っている絵を思い浮かべる方も多いと思います。しかし現在この神戸城には天守はありません。天守が建っていた場所には天守台が残されており、本丸や二の丸の跡、堀や土塁の跡も一部残っています。石垣は野面積みで一部に墓石なども使われているのが分かります。数多くの遺構が当時の状態で確認できるお城と言えるのです。

実際に天守がないと「迫力が無い」「お城じゃない」と言う方もいますが、神戸城には多くの遺構が残されていますので、天守台を眺めてそこに建っていた天守を思い描いたり、堀や土塁の跡からその敷地の大きさや勇壮さを感じ取ったり、当時から積まれていた石垣は戦国武将たちを実際に見ていただろうと想像するなど、天守が無くても充分にその時代に思いを馳せて楽しむことが出来るのです。

ちなみに日本のお城は再建された城郭を含め現在確認できるものだけで数千、現存せず過去に建っていた城も含めると2万5千とも言われています。神戸城の近くにも、津城、松坂城、鳥羽城、桑名城など多くの城がありますが、そのほとんどが天守が無い城跡か、近年に再建されたお城です。三重県で当時のまま現存する城郭建築は亀山城の櫓のみなのです。

今回紹介する神戸城の築城年代は実は定かではありません。
1550年(天文19年)頃に神戸具盛(かんべとももり)によって築かれたと伝わっています。若き織田信長が桶狭間の戦いで今川義元の大軍を少数で討ち果たし天下にその名を知らしめたのが1560年なので、桶狭間の戦いの10年ほど前に築城された戦国時代のお城だということが分かります。

神戸城を築城した神戸具盛は戦国時代の武将で、伊勢の国人領主である神戸氏の第4代当主で有力な戦国大名の1人です。神戸氏は伊勢平氏関氏の一族で、関盛澄が鈴鹿郡と河曲郡のうち24郷を領土として拡大し、沢城(神戸西城)を築いて神戸氏の祖となったと伝わっています。

神戸具盛は神戸家ではなく伊勢国司である北畠家に生まれます。
実の父親は北畠家の第6代当主、北畠材親です。神戸氏は早くから北畠氏の影響下に置かれていましたが、跡継ぎに恵まれず神戸氏をより強化したいと望む声が高まります。具盛は京都の相国寺に侍童として仕えていましたが、神戸氏第3代当主の神戸為盛が具盛を呼び戻し神戸家の養子に迎えました。

具盛が神戸家の家督を継いで当主となり、神戸具盛を名乗るようになると沢城を居城とし力を発揮していきます。生家である北畠氏の力を背景に伊勢楠木氏や赤堀氏に娘を嫁がせ、北伊勢を中心に神戸氏の勢力を拡大させます。勢いに乗った具盛が鈴鹿市神戸本多町に築城して拠点を移すのですが、そのお城こそ神戸城だったのです。

そこから具盛はさらに勢力を拡大し、実子で第5代当主となる長盛、孫で第6代当主となる利盛の時代には神戸氏は北伊勢を代表する勢力の一つとして関氏や長野氏と並び称される勢力になっていくのです。

そんな神戸城ですが実はあの織田信長とも深く関わっているのです。
1567年(永禄10年)に領土拡大に躍進する信長が伊勢方面に侵攻してきます。
第7代当主、神戸友盛の時に織田家の滝川一益が攻めてきました。神戸家の山路弾正が高岡城に籠もって凌ぎましたが翌年にも織田勢が攻め込むと、神戸友盛は信長の三男である信孝を養子として迎えることで和睦する事になります。織田信孝はこのとき神戸信孝と名を変え神戸氏となります。

伊勢方面も手中にした織田信長は、1571年(元亀2年)になると神戸友盛を沢城に隠居させ信孝を神戸城主に据えてしまいます。その後、友盛は近江の蒲生氏に預けられるのです。これに反発した山路弾正らは神戸城を奪還するために高岡城で挙兵しようと画策しますが計画が発覚してしまい、山路弾正は切腹となり高岡城には信孝の異母兄弟にあたる小島兵部が配置されました。

1580年(天正8年)に神戸信孝は神戸城をより強固に拡張し、5重6階の天守を築きました。北東に小天守と南西に付櫓がある複合連結式の天守であったことが分かり、神戸城に残された天守台の上にそびえ建つ五重の天守を思い浮かべることができます。そして名前こそ神戸城ではあるものの、実際には織田家に取り込まれてしまったお城だと知ると何か哀愁のようなものも感じます。

神戸城の城主となった信孝は、1582年(天正10年)に織田信長による四国攻略の総大将となります。しかし堺にて侵攻の準備をしていた時にあの本能寺の変が勃発するのです。明智光秀が謀反を起こし織田信長を討った歴史上最も有名な大事件により四国攻めは中止となりました。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が主君を討った謀反人、明智光秀を討つために山崎の天王山にて天下分け目の合戦に挑むと、神戸信孝は父、信長の弔い合戦として勇んで参加します。見事に秀吉と共に光秀を討ち果たすと信孝は岐阜城に移り神戸城には小島兵部が入城しました。

織田信長がいなくなると羽柴秀吉が次の天下人は自分だと言わんばかりに躍進してきます。それに反発した信孝は秀吉に従わずに反旗を翻した織田家臣の柴田勝家と結んで賎ヶ岳合戦に参戦します。信孝は岐阜城で挙兵しますが秀吉によって岐阜城が攻められると降伏して開城し、知多の野間大坊で自刃しました。26歳の若さでの切腹は壮絶なものだったと伝わっています。

 

織田信長とも深く関わり、戦国時代の国盗りの拠点として活躍した神戸城は、その後も幾多の戦乱に巻き込まれ、城主は度々代わり修築を繰り返しますが、1595年(文禄4年)に天守は解体されてしまいます。その天守は桑名城に三重櫓として移築され神戸櫓と呼ばれました。これ以降、神戸城に天守は存在しません。

関ヶ原の戦い以降は、尾張国より一柳氏が5万石で神戸城に入城しました。
1636年(寛永13)に一柳氏が伊予国に転封となると神戸城は破却され天領となります。その後も伊勢国内より石川総長、河内国より本多忠統が入城としたと伝わり、本多氏の時に荒廃していた神戸城が再度整備され二重櫓や二の丸太鼓櫓などが作られました。

その後は神戸藩の藩庁が置かれ、神戸城は明治まで生き延びるのです。今は二の丸太鼓櫓は蓮花寺に移築され、鯱は市役所に移されました。大手門は四日市市にある顕正寺の山門として移築され、その境内には神戸城で使用されていた鬼瓦もあります。そのどれもが現存しており現在も見る事ができるのです。

現在の神戸城は中心部が神戸公園となっており、二の丸跡には、三重県立神戸高等学校が建てられています。高校の西側に公園があり、公園の北側に駐車場があります。城の周りにはお寺が複数ありますが、本多氏の時に近隣の寺を集めたからだそうです。

神戸公園から鈴鹿市駅方面の道は防御的な入り組んだ道となっており当時の町の情景が思い浮かびます。神戸高校内のテニスコートあたりが藩校があった場所で、その当時からある楠が今も現存しています。天守が残されていない神戸城ですが、各所に散らばった城の名残りを見て回るのも感慨深いかもしれません。

そんな神戸城は現在の鈴鹿市の中心部にあり、県指定史跡となってます。
歴史を知った上で城址を訪れると、また違った角度から広い視野でお城を見る事ができます。織田信長軍との攻防戦、生き残るための軍議や策略などが日々繰り広げられたことでしょう。

当時に思いを馳せて散策するだけで戦国時代の熱を感じてワクワクしてくるかもしれません。ぜひ訪れてみてください。

 

 

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