三重県鈴鹿市出身の著名人として知っておきたい偉人がまだいます。
明治から昭和を生きた歌人で、国文学者としても知られ第一回文化勲章を受賞した、佐佐木信綱です。「令和」に関する万葉集研究の第一人者としても知られています。
日本の歌としてよく知られた唱歌「夏は来ぬ」(なつはきぬ)の作詞家と言えば思い当たる方も多いかと思います。
「うの花の 匂う垣根に ほととぎす 早も来鳴きて しのびねもらす 夏はきぬ」が唱歌「夏は来ぬ」なのですが、歌詞を読むだけでメロディが頭を流れてくる方も多いでしょう。
「うの花」は初夏に白い花を咲かせるウツギの花を指し、旧暦の4月(卯月)頃に咲くことから「卯月の花」=「うの花」と呼ばれました。垣根には早くも来て鳴いているホトトギスがいて、その年に初めて聞かれるホトトギスの鳴き声を「忍音(しのびね)」と言います。「古今和歌集」や「枕草子」などの古典文学にも登場する古語から引用されています。もうすぐ夏がやってくるという期待がうかがえる歌詞と言えます。
唱歌「夏は来ぬ」は、1番から5番まであり、初夏に関連する季語をズラリと並べて様々な風物詩を通して夏の訪れを豊かに表現しています。改めて歌詞の内容にも耳を傾けてみると初夏の気持ちのいい風や鳥の歌う声など夏の情景がまぶたに浮かんでくるようです。
1896年5月に「新編教育唱歌集(第五集)」にて発表され、2007年に日本の歌百選に選出されました。当時も今も歌われ続ける最も有名な日本の歌のひとつと言えるでしょう。
多くの日本人の心に刻まれた唱歌「夏は来ぬ」など多数の名曲を残した歌人、佐佐木信綱は明治5年6月3日三重県鈴鹿郡石薬師村、現在の鈴鹿市石薬師町にて歌人である佐々木弘綱の長男として生まれました。佐々木弘綱は本居宣長の流れを汲む伊勢の国学者・足利弘訓に学びました。父親の苗字が「佐々木」なのに信綱は「佐佐木」を名乗っています。これは明治36年、信綱が32歳の時に中国へ遊学をした時、上海で自分の名刺を作ったのですが、完成した名刺には「佐佐木信綱」と印刷されていたそうです。中国には「々」の字が存在しないことを知り、改めてこの名刺を見た信綱は「見た目がよい」と大変気に入り、以後の著作物などに好んで「佐佐木信綱」と使うようになったようです。
信綱は4歳から歌人である父の弘綱から「万葉集」や西行の「山家集」の歌を暗唱するよう教えられ、5歳の時に初めて短歌を作りました。5歳の時に作った歌として次のものがあります。
「障子から のぞいてみれば ちらちらと 雪のふる日に 鶯がなく」。それから生涯に1万余首を作歌し、明治から昭和にかけて数多くの歌集を刊行しました。
信綱は1882年(明治15年)11歳にして早くも上京を果たします。1884年(明治17年)には現在の東大である東京帝国大学文学部古典講習科に進み、1888年(明治21年)に卒業します。1890年(明治23年)には父、弘綱と共編で「日本歌学全書」全12冊の刊行を開始します。1896年(明治29年)になると森鴎外の「めざまし草」に歌を発表し、歌誌「いささ川」を創刊します。また、落合直文や与謝野鉄幹らと新詩会をおこし、新体詩集「この花」を刊行します。明治30年頃になると父、弘綱のあとを受けて「竹柏会」(ちくはくかい)を主宰します。機関誌「心の花」の創刊や、門人の育成・指導にあたるなど歌人として意欲的に活躍しました。作風は,清新,温雅,肯定的人生観がうかがえる。『ひろく,ふかく,おのがじしに』を作歌信条として,多くの歌人を育てました。
信綱が育成した歌人として、木下利玄、川田順、前川佐美雄、九条武子、柳原白蓮、相馬御風などが挙げられ、多くの歌人の育成に尽力しました。国語学者の新村出、翻訳家の片山広子、村岡花子、後に娘婿となる国文学者の久松潜一も信綱のもとで和歌を学んだと伝わります。
佐佐木信綱は歌人としてだけでなく、国文学者としても名を残しています。
東京大学で26年間にわたり教鞭を執るなど学者として歌学史、和歌史、歌謡史に新天地を開拓し「令和」の元号発表時に大きな注目を集めた「万葉集」は生涯の研究主題としており、近代における万葉学樹立は信綱によるところが多いと言われています。
信綱は万葉集の体系化を志し「元歴校本万葉集」や「西本願寺万葉集」など日本各地を巡って万葉集の古写本の発掘を行い、「万葉集の研究」など基礎資料を数多く編集し万葉学を樹立しました。武田祐吉、久松潜一らの協力を得た「校本萬葉集」の完成は万葉研究の一時代を築きます。著作「万葉集事典」は万葉研究の集大成と言われています。「万葉秘林」など30以上の古鈔本や古文書を自費で複製し公布し、「英訳万葉集」などを通じて海外にも万葉集を宣布するなど功績を残しています。
埋もれていた歌集・歌謡書や歌人にも光を当て、「日本歌学史」「和歌史の研究」「近世和歌史」を刊行するなど日本の文化としての和歌を後世に伝える役割も担っており、「校本萬葉集」「新訓 万葉集」「新古今和歌集」など古典の書を活字本として複製し頒布しました。信綱の研究は書誌的、文献的で、この方面の功績も多く学界に大いに貢献しました。
そんな信綱は1934年(昭和9年)7月31日、帝国学士院会員となり、1937年(昭和12年)第1回文化勲章を受賞します。文学博士、学士院、帝国芸術院会員となります。御歌所寄人として歌会始撰者でもあった信綱は、貞明皇后ら皇族に和歌の指導も行っています。日本文学報国会短歌部会長も務めました。1951年(昭和26年)には文化の向上発達に関し特に功績顕著な人物として文化功労者となっています。1952年(昭和27年)に上代文学会の設立に関わり、学会誌「上代文学」創刊号に祝辞を寄せるなど文化人としても社会に貢献しました。
同時期を生きた歌人であり、小説家や文芸評論家などの肩書を持つ医学博士、上田三四二は歌人としての信綱について「氏を大歌人と呼んでいいかどうか私は疑う。けれども氏は疑いなく大学者だった。」と評しています。信綱にとって作歌と学問は別のものではなく、信綱の歌は学と識を備えた伝統的な詩歌の正統だったと考察しています。
歌人としての信綱の功績は全国の多くの学校で校歌の作詞を手がけている事でも証明できるでしょう。
郷里である三重県の三重県立四日市高等学校、四日市市立楠中学校、鈴鹿市立石薬師小学校をはじめ、北海道から九州までの全国120以上の学校の校歌の作詞を手がけています。
東京都の千代田区立麹町中学校
台東区立根岸小学校
板橋区立赤塚第三中学校
世田谷区立緑丘中学校
茨城県の筑波大学附属小学校
埼玉県の川口市立本町小学校、滑川町立宮前小学校
栃木県の那須烏山市立烏山小学校
神奈川県の神奈川県立横浜平沼高等学校、清泉女学院中学高等学校、清泉小学校
山梨県の中央市立三村小学校
滋賀県の近江八幡市立八幡小学校
奈良県の奈良県立奈良高等学校、吉野町立吉野中学校、
静岡県の熱海市立熱海中学校など。
信綱が作詞したとは知らずに母校の校歌を歌っていた方も多いのではないでしょうか。校歌の歌詞を通じて教育面でも貢献していたことが分かります。
信綱は晩年、静岡県熱海西山に移り住んでいます。昭和38年12月2日に凌寒荘にて92歳で世を去るまで熱海で国文学研究と作歌にその一生を捧げ、多くの業績を残しました。
信綱の出身地である石薬師町には「佐佐木信綱記念館」がありますので訪れてみて下さい。ここには第1回の文化勲章をはじめ、信綱の著作や遺品を展示する資料館があり、昭和45年には生家が移築され記念館となっています。
平成16年には信綱の短歌に広く親しんでもらうため「信綱かるた」が作られました。信綱が生涯において詠んだ1万余首の中から50首を選んでいます。旅の思い出に購入してみてはいかがでしょう。
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